storys 死ぬってどんな気持ちなんだろう―――そう考えたことがある。
案外気持ちのいいものじゃなかった。
車に撥ねられて痛いし、雨に打たれて身体冷えるし、救急車来るの遅れて寒いし。とにかく、苦しみながらも ずっと死にたくないって思ってたんだ。
そうしたら死ななかった……なんてご都合主義な展開にはならなかった。
むしろ生にしがみつく悪霊にでもなってしまったのか、成仏できずに浮遊霊になってしまったら しい。
(あーあ……どうしよう)
聴いたことがある。
死んでからも現世に執着すると、自縛霊とか浮遊霊になって成仏できなくなってしまう、と。そのうち負の感 情に支配されて、自分が自分でなくなってしまうらしい。
(死んだんだから天使でも悪魔でも迎えに来いっての、ったく)
そんなものが実在するとは思ってもいないが、それでも自分と同類の霊か何かが彼の世とやらに導いてくれて もいいと思う。
でも聴こえてくるのは人々の喧騒と、まだ遠くから聴こえる救急車のサイレンくらい。他には…
「おにいちゃん! やだ、死んじゃやだよ……うっ…えぐ…!」
ただ泣き喚くだけの妹、菜緒の声だった。
黒髪ショートカットの髪は雨に濡れ、膝をついているためにズボンも泥水を吸ってしまっている 。
(そういえば大してかまってもやれなかったな…)
今は確か小学五年生だっただろうか。
かなり前から興味もなく、顔を合わせても話をしなかったと思う。テレビを見てれば沈黙は苦にもならないか ら。けっこう冷めた兄妹関係だった。もっとも親代わりとなっている従姉弟の加藤静夜とも似たよ うなものだ。
(それにしてもひき逃げか、えげつねぇよ)
彼を轢いた乗用車は現場から逃走していた。
目撃者だっていないわけじゃないのに、逃げ出したのだ。どうせすぐに警察に捕まることだろう。ひき逃げは 重罪だ。
現場は強い雨が降り出し、アスファルトを強く叩いている。
見通しの悪い交差点の一角。そこには横たわった彼の死体と、その死体の側で泣き喚く菜緒の姿だけ。あとは 野次馬が遠巻きに集まりはじめている。
彼の死体の側に雨に濡れた生徒手帳が落ちていた。
―――加々見涼介。
高校三年生の18歳。
それが、彼の人生最期の日だった。
◆
加々見涼介はごく平凡な高校生だった。
ごく平凡とはいっても、何の特徴もないという意味ではない。ただ毎日を平凡に過ごし、適度な友人付き合い をして、適度にクラスメイトの女子と付き合って、そうやって生きてきた。
平凡というのは彼自身がそう感じていただけである。
両親を六年前に亡くしてからは、親戚中を妹とたらいまわしにされ、最終的に自立したばかりの従姉弟のお姉 さんに拾ってもらった。
彼には心残りというものは別にない。
少なくとも、そう思っていた。
「………」
あまり会話もなかった妹の菜緒は、涼介が死んでから部屋にこもって泣くばかり。
「勘違いすんな、わたしが付き合ってあげてるんだからね!」
ことあるごとにそう言っていた恋人の村沢藤乃は、表面上こそ普段と変わらなかったが、ひょんな時に見せる 表情に影を落とすようになっていた。
従姉弟のお姉さん、加藤静夜は強い女性だったが、それでも子も同然だった従姉弟を失って何も思わないほど 強くもなかったようだ。菜緒の手前は普段通りを装っていたが、前よりも飲酒量が増えていた。
それと友人のひとりである竹田章人は……涼介の死を知って悲しみよりも怒りの方が大きかったらしい。軽い 性格の軟派な男だと思っていたが、自分が死んでからはじめて涼介はその印象をあらためた。
教室では涼介が死んでから、その机の上に花が生けられるようになる。
ふらふらと涼介は自分の席に座り、呆然としていた。自分が死んだくらいでは別に大したこともないだろうと 思っていたが、実際はそう簡単にはいかなかったらしい。
(……何で俺なんかのためにさぁ、悲しむかな)
そうしてくれるたびに、涼介は苦しさを覚える。
いつも通りとはちょっとテンションの低い授業を聴いて、もう平凡な日常は訪れないんだなぁとなんとなく考 えた。
得たものは苦しさを覚えるもので、失ったものはたぶんすごく大きい。
もう当たり前のことが自分の手元には戻ってこないのだ。誰も涼介の存在を確認できず、涼介の姿を見ること もできず、涼介も何も触れなくなってしまった。幽霊なのだから当たり前であるけど、でもその当たり前をすぐ に認めてしまうことが、涼介には出来なかった。
(ダメだ……我慢が、出来なくなってきた…)
涼介の死を、誰も悲しんでくれなければ、たぶんこんな気持ちにはならなかっただろう。だけどみんなそれぞ れ悲しんでくれたから、自分の中にある明確な憎しみを意識してしまった。
(俺からすべてを奪ったあの車の運転手が……憎い…)
教室から外へと出て、ふらふらと自宅へと戻る。
直接自室に入って大人しくしててもいいが、ちょっとした気まぐれで菜緒の部屋をのぞいてみる ことにした。
菜緒はベッドの中で頭まで布団に包まっていた。不恰好なクマのぬいぐるみを抱いて…。
そういえばこのクマのぬいぐるみは昔、涼介がゲームセンターで取った景品だった。いらないから菜緒に押し 付けたものだ。
(大切にしてくれたんだな…)
少しだけ心が軽くなるのを感じた。
それと同時に、頭の中にいろいろな情報が流れ込んでくる。
雨
白い乗用車
ナンバープレート
車の中のラジオの声
運転席の、中年の男性
(―――なんだ、これ……ぐっ…あ…)
苦しみと同時に断片的な情報を感じた。
それは映像ともいえるし、音ともいえる。おそらく生きている間にはない感覚なのだろう。これは、たぶん、 意思。それを感じ取る力。
物にも人にも、意思が宿る。
行動にも状況にも意思が宿ると言われる。
それを正確に感じ取ることができれば、ひき逃げ犯に辿りつくことができるかも知れない。
涼介はその情報と意思に、自分の感覚を委ねた――――
◆
新垣敏三は苛立っていた。
油の浮いた額に血管を浮き上がらせ、歯をかみ締めてその苛立ちを発散させるものを無意識のうちに探してい た。
「くそ、あのガキが飛び出してくるから車が汚れちまった」
身勝手なことをぼやきつつ、敏三は自宅の車庫で車を磨いている。証拠となるものを隠滅しようとしているの だろう。ここ数日、警察が自分のことを訊ねてこないかと心配となり、何度も車の点検をしていた 。
「ふん……こんなもんでいいだろう。割れちまったライトは知り合いの整備士にでも頼んで何とかしてもらえば いい。さて、疲れた疲れた」
そういいながら敏三は肩の筋肉を揉み解しながら、自宅へと入っていった。
今日もくだらない上司の嫌味を聞かされ、その苛立ちを新人の女性社員相手に解消してやったら、冷たい目で 見られて無視された。役に立たない愚図の仕事に我慢してやってるのだから、愚痴くらい聞いたらどうだと敏三 は憤激する。
影では、体臭がヤバイとかキモイとか囁かれる。
そんなことを囁かれる原因が自分の身勝手な考えにあり、体臭云々はあとづけされた悪口であることに敏三は 気付かない。せめて人柄が良くて、その年代特有の自己完結的な思考をしなければ、そのような悪口はなくなる だろう。
しかし敏三は自分こそは正しいと思っている。
思っているからこそ、そんな陰口を叩く女性社員を怒鳴る。それが余計に事態を悪化させるものだということ にも気付いていない。
新垣敏三は、間違った正義感を振りかざして他人に押し付けるような、そんなどこにでもいるようなうだつの 上がらない中年サラリーマンだった。
「まったく、交通ルールも知らんようなガキは困るな、ガキは」
まだ憤激冷めやらず、常軌を逸する発言をしたことにも気付かずに玄関の扉を開けて家に上がり 込む。
「帰ったぞー、おーい?」
電気を点けてリビングに行く。
そこに妻と二人の娘の姿はなかった。妻との関係は冷め切っていたが、二人のまだ小さな娘たちの声を聴くこ とが、疲れを癒す唯一の手段だった。
「くだらん、またワシに何も言わずに出かけたのか。誰が稼いで来てやってると思ってるんだ、あ の馬鹿は」
思わずそう愚痴りつつ、テーブルの上に視線を走らせた時、敏三は言葉を失った。慌ててテーブルの上に置い てあった書き置きを掴み取り、凝視する。
「実家に帰る? 追ってこないでください? 何を言っとるんだッ!?」
口頭泡を飛ばしながら、敏三は分けの分からない妻の行動に苛立ちを募らせた。もうその苛立ちは限界に達し 、テーブルに拳を思いっきり叩きつけるという暴力に発展していた。
すぐに自宅の電話から妻の実家へと電話を掛ける。
苛立ちは限界まで来ていたが、それでもまずは冷静に話さなければまずいだろう。実家に帰ったということは 、向こうの両親が間に入るということであるからだ。
『はい、田原ですが』
「ああ、お義父さんですか。わたくし、敏三です。お久しぶりです」
怒りをぶちまけるのは妻を家に戻してからだ。
敏三は受話器をきつく握り締め、恥辱に顔がひくひくと歪んでいくのを止めることができなかっ た。
『敏三くんか、悪いが何も話すことはないよ』
「そんな!? いったいわたくしめが何をしたというのです、お義父さん!」
『自分の胸に手を当てて考えてみなさい。金輪際、私を義父と呼ばないでくれたまえ』
「ま、待ってくださいっ!」
『あの子は、良子は離婚する決意を固めている。二人の子供たちも私たちが引き取るつもりだ。文句があるなら 法廷で会おう、さらばだ敏三くん!!』
ガシャンと強い音が鼓膜に響く。
力任せに電話を切られたのだろう。受話器を置き、今まで持ったままだったセカンドバッグを思いっきり投げ つける。
「ワシが何をした!? こんな仕打ちがあるかっ!!」
自分の身に覚えがなくて当然だろう。
敏三は自分こそが正しいと、歪んだ思考を持った中年男なのだから。自分が正しいから、今の状況を正しく認 識できない。理解できない。ただ、今この瞬間でさえ自分こそが正しいと思い込んでいる。
「今まで誰に食べさせてもらって来たと思っとるんだ!! ワシの稼ぎだろうがッ!! ああッ! ?」
乱暴な動きで敏三は冷蔵庫を開け放ち、缶ビールを取り出す。一昨日多めに買っておいたものだ。プルタブを 開けて、一気に喉に流し込む。
「ぷはっ……がはっ、はぁ……はぁ…!!」
荒い息を整え、飲みかけの缶を流しに叩き込む。
こういう時は寝るのが一番だ。まずは睡眠をとり、冷静になってもう一度考えよう。自分は正し い。
「寝る、ワシは寝るぞっ!」
叫びながら寝室に入っていく。
適当に着替えを済ませ、部屋を暗くしてベッドに倒れ伏す。頭に血が上ったまま、いろいろなことが脳裏をよ ぎる。くそ、飲みなおすかと思い立った時―――
「だ、誰だっ!?」
寝室の入り口に何者かが立っていた。
学生服を着た男。うらめしげにこちらを見ている。
「ま、まさか……」
妻と娘のことで忘れ去っていたが、つい数日前、敏三は人を轢いてしまったのだ。まさか死んでいたとは思っ ていない。思いもしなかったが…。
「た……助け…」
その時、敏三は身体がまったく動かなくなっていることに気付く。指先ひとつ動かせない。金縛りなどこの四 十余年、一度もかかったことがないので混乱していく。
(人を轢き殺しておいて、のん気なものだな。新垣敏三)
「な……ぜ……名前…」
なぜ名前を知っているのか。
そう敏三は問いたかったが、それは言葉にはならなかった。
(おまえが憎い……おまえが衰弱死するまで付きまとってやる…)
「待て、ワシにも家庭があるんだ。今はそれどころじゃない。分かってくれ」
(俺にも家庭があった。おまえが壊した)
「ひっ!」
人影に睨まれると敏三はつぶれたカエルのような悲鳴をあげた。人影、言うまでもなく涼介である。涼介は確 かに敏三を憎んだが、妻と娘に見放され、会社では疎まれ、そしてこれから間違いなく逮捕されることとなる敏 三には哀れを通り越して呆れていた。
もう数日とすることなく警察が来るが、せめて自首させてやるか…。
(おまえが罪を認めない限り、俺はおまえの娘たちも同じ運命に遭わせよう)
「おなじ……うんめい…? ま、まさか…やめろっ」
(娘がひき逃げされたら、おまえはどう思うだろうな。交通ルールを知らないガキは困るなと、ひき逃げ犯の味 方をするのか? ええ?)
「ひぃぃぃ、お許しをぉ!? 警察いきますからっ、自首いたしますからっ」
金縛りを解いてやると、敏三は頭をつけて土下座した。涼介は深いため息をつきながら思う。
―――復讐する方も、きついものがあるんだな。
◆
夜が明けてから新垣敏三は警察に出頭した。
いくら自首したとはいっても、ひき逃げは重罪である。間違いなく厳罰を下されるだろう。だがそれは自らが やったことであり、そこまでは同情の余地はない。
(復讐完了――っと)
一応の復讐。
涼介は自分のために復讐したのではない。自分のために泣いてくれた人たちのために、せめてひき逃げ犯が逮 捕されたことで安心して欲しかったのだ。それで自分の中で気持ちの整理をつけて欲しい。決着をつけて欲しい 。
涼介自身に望むことは特にない。
自分のことでの引っかかりは解消した。これで成仏でも出来れば十全なのだが、そう上手くもいかないらしい 。成仏の仕方が分からない幽霊は大変だ。
ふらふらと家に帰り着き、妹の、菜緒の部屋に入る。
菜緒は泣きつかれたのか、寝ているようだった。
(菜緒……犯人は逮捕されたから、だからもう安心してくれ)
そっと、菜緒の方に近づいた瞬間。
(え……?)
何か強烈な力を感じ、それに抗えずに吸い込まれる。
なんだ、何なのだこれは…。
分けが分からず、とりあえず腕をあげる。
(………)
黄色い腕だった。
ふわふわもこもこで触り心地が非常によさそうな素材の腕。気付けば視点も変わっていて、菜緒の顔のすぐ下 になっていた。そして身体はその胸に抱かれている。
「んんっ……」
ぬいぐるみが動いたからか、菜緒が起きそうになる。危ない危ない…。
それにしてもこれは、まさか……もしかして…。
(ぬいぐるみに乗り移ってしまったのか――――っ!!?) |